「ほどほど」にたどり着く

テクノロジーとウェルビーイングの関係

テクノロジーの身体化と“よい情動” がウェルビーイングにつながる

現代のウェルビーイングについて考える際には、人間にとってテクノロジーとは何かという根源的な考察が必要です。ウェルビーイングに生きるためのテクノロジーとの向き合い方はどうあるべきか、「心の哲学」の研究者である信原幸弘さんと「技術の哲学」の研究者である七沢智樹さんに見解をお聞きしました。

七沢智樹 信原幸弘

七沢智樹
Tomoki Nanasawa

Technel合同会社 代表。東京大学大学院情報学環客員研究員。大学卒業後、音楽活動、原生ジャングルサバイバル、公認会計士、ベンチャー企業の共同経営、技術開発などの活動の後、テクノロジーの哲学を探究すべく、諸分野の研究者と活動を開始。若手技術哲学研究者らと「技哲研」を立ち上げる。『技術哲学講義』(マーク・クーケルバーク)を共訳。2023年6月の国際技術哲学会で運営委員を務める。
 (※写真左)

信原幸弘
Yukihiro Nobuhara

東京大学 名誉教授。Technel合同会社 顧問。専門は心の哲学。心身問題、志向性、意識(クオリア)といった心の哲学の基本問題を長年考察。近年では、理性は脇役で情動が主役だという考えを著書『情動の哲学入門』で展開。「批判的思考」や「ウェルビーイング」を理性主義的に捉える見方を批判し、それに代えて適切な情動を核とする見方に転換すべきことを訴えてきた。 
(※写真右)

「具合のよい」テクノロジーがウェルビーイングを高める

—まず、お二人の自己紹介をお願いします。

信原:私の専門は「心の哲学」という分野で、東京大学の科学史・科学哲学研究室で大学院生として勉強し、その後そこの教員になり、2020年3月に定年退職して今日に至ります。最近は、心の哲学の応用として、ウェルビーイングの哲学や七沢さんとテクノロジーの哲学の研究をしています。

七沢:私は京都大学農学部出身で、大学卒業後は音楽活動をしたり原生ジャングルでサバイバルなどを経験し、東京で会計士として4年間働いたあと、瞑想のためのテクノロジーを開発するベンチャーの共同経営に携わりました。そのプロダクトはTransformative Technologyと呼ばれる分野で、それなりの評価を受けました。その後、「テクノロジーの哲学」を掘り下げたくなり、2020年より東京大学の客員研究員になって、2021年にはウェルビーイングのテクノロジーの社会実装に向けて起業しています。信原先生とは2年ほど前に出会って以来、Technelの顧問という形で入ってもらって、週2、3回、ウェルビーイングとテクノロジーなどについて議論をさせてもらっています。

—現代の社会生活にテクノロジーは欠かせないと思いますが、ウェルビーイングにとって“よいテクノロジー”とはどのようなものでしょうか?

信原:まず、人間にとって「具合のよいテクノロジー」もあれば、「具合のわるいテクノロジー」もあるはずで、問題はいかに具合のよいテクノロジーを開発し、具合のわるいテクノロジーを避けるか、ということだと思います。では、具合のよいテクノロジー、つまり、ウェルビーイングを高めるテクノロジーとは何かということですが、テクノロジーはたいていの場合、ウェルビーイングを高めてきたと思います。例えば、テクノロジーは労働の苦役から人間を解放しましたし、今や知的な単純作業からも解放しつつあります。最近は、ちょっとしたクリエイティブな活動も行えます。私は、そもそも、人間はテクノロジーから切り離して存在できない「生まれながらのサイボーグ」であると考えています。仕事が奪われるということを心配する方もいますが、こうしたサイボーグ的観点から、そして法制度や社会の仕組みなども含めた視点から考えるべきで、仕事を奪われるという理由だけでテクノロジーの開発を止めるべきではないと思います。

七沢:自身のエピソードから紹介すると、私は西表島の奥地で「Iriomote JUNGLE CLUB」という活動をやっているのですが、人はたとえジャングルのような原初の自然環境に置かれても、テクノロジーを捨てるわけにはいかないということに気付かされます(図1)。火を起こしたり、魚を釣ったり、テントなどに滞在したりと、生きるための道具やテクノロジーは必要です。そして、人類は、道具やテクノロジーを「身体化」することで生きながらえてきたことに気付きます。ナイフが手になじんでいく過程で、道具が身体の延長となる太古の人間の原初的な“サイボーグの感覚”を思い出すのです。

信原:「身体化」はフランスの哲学者メルロ=ポンティが使って有名になった言葉です。彼はよく、つえの事例を出します。つえの先端が地面に接触したとき、つえの先端に地面の感触が得られますが、それは手で地面を触るのと同じことだと述べています。つえがこのように手足の一部となるには、毎日使ってなじんでいくことが必要ですが、よくなじむと、とても具合のよい道具になります。しかし、現代のパソコンやスマートフォンのようなテクノロジーが、よくなじめば具合のよいものになるかというと、必ずしもそうとは言い切れません。それらは中毒性があるので、なじみすぎると、かえって具合のわるいテクノロジーになる恐れもあります。

七沢:まとめると、まず具合のよいテクノロジーとは「よりよく生きるための身体化された道具」と言えるのではないでしょうか。これは、今話題のGPT-4などのAIであっても当てはまります。逆に、相容れない具合のわるいテクノロジーとは、そうした意味で身体化できない道具だと考えています。例えば、スマートフォンの場合、一見身体になじんでいるように見えて、それなしでは生きられない中毒性や不自由さをもたらすなら、具合はよくありません。

[図1]Iriomote JUNGLE CLUB

[図1] 西表島のジャングルが人間に与える影響とそのポテンシャルを見つめ直す七沢さんのプロジェクト「Iriomote JUNGLE CLUB」。野生の感覚を取り戻すことで持続可能性やウェルビーイングを考えるきっかけにもつながるという。
https://jungleclub.studio.site

テクノロジーを身体化するプロセスと依存性の問題

—身体化のプロセスが、「具合のよさ」や「具合のわるさ」とどう結びついていくのか、もう少し聞かせてください。

信原:身体化されてなじんでいるテクノロジーは、基本的に具合のよいテクノロジーだと言えそうですが、身体化されたときに依存性を生むテクノロジーには注意が必要です。それは具合のわるいテクノロジーになる恐れがあります。もちろん、依存しているかどうか、また、依存しているからわるいのかどうかの判断は、場合によっては難しい問題です。例えば、ウェルビーイングにとって、何かに依存せずに自分のなすべきことを自分で決める「自律性」と心地よい「快適な経験」はどちらも大切ですが、この2つの価値を両立させることができず、葛藤が起こる場合があります。そのとき、自分の自律性が奪われることを害だと感じる人もいれば、自律性を失って依存的になっても快い状態が奪われるほうが害だと思う人もいるでしょう。どちらが正しいかは必ずしも容易に決まるとは限りません。また、テクノロジーが身体化されたときに、テクノロジーとつながれた「生身の人間」の能力が衰退するからわるいという捉え方もありますが、そうではなく、テクノロジーと生身の人間が一体化した全体の能力が衰退しているかどうかを問題にすべきだと思います。

七沢:「生まれながらのサイボーグ」というのはアンディ・クラークという現代の哲学者の言葉です(図2)。例えば、紙とペンで計算するとき、心の働きが、紙とペンという周囲の環境と一体となることで「計算」という能力が生まれてくる、これが「身体化」のプロセスの一つのあり方と言えます。あくまで手の先にテクノロジーがあり、周囲の環境との調和やインタラクションによって能力を拡張していくのがサイボーグであって、テクノロジーと一体化していても一つの「生命」であるという考え方です。私たちは今AIのさまざまな機能を身体化しようとしていますが、江戸時代の人にしてみれば、私たちはすでにとんでもないレベルでテクノロジーに依存したサイボーグに見えるでしょう(図3)。現代人にとって「サイボーグとしていきいきしている状態」とはどのようなものかを考えることが重要です。

“ほどほど” の関わりがウェルビーイングにつながる

—次に、テクノロジーと情動の関係という視点からは、ウェルビーイングはどう考えられるでしょうか?

信原:ウェルビーイングを一番高めるのが情動であり、一番損なうのも情動であると思います。一般的には、喜びや感動のような正の情動と悲しみやねたみといった負の情動があって、できるだけ正の情動を増やして負の情動を減らすことがウェルビーイングだと言われます。しかし、私が大事だと考えるのは、単なる情動の正負ではなく、自分が置かれた価値的状況を正しく捉えた“適切な情動”であるかどうかということです(図4)。例えば、自分のやりたいことが実現されたときに喜びが湧くのは適切な情動ですが、大切な人を失ったときに喜びが湧いてきたら、その情動は状況に対して不適切な情動と言えるでしょう。そういう意味では、それが負の情動でも、誰かをねたむべき状況でねたまないのは不適切な情動となります。しっかりとねたむときにはねたむ、怒るときには怒らないといけない。そうしないと、ウェルビーイングを損ねることになります。薬物でも、スマートフォンでも、それらを使ってどんな形でもいいからとにかく正の情動を確保しようというのは間違っていて、状況に対して適切な情動をできるだけ抱くようにすることが、人生をまさに意味のあるものにするのだと思います。

七沢:確かに、スマホをいじってコンテンツを見ているときに「面白い」という情動もあれば、同時にどこかで、「見たくもないのに見ている」とか、「時間を奪われて嫌だな」という情動もありますね……。身体化されたテクノロジーによって生じるさまざまな不具合は、透明化していて、自分ではなかなか気が付かないものです。

信原:スマートフォンを使っているときに、「面白い」という情動だけに埋没すると、ブレーキがかからない状態になってしまいます。同時に生じているほかの情動にも、しっかり気付くことが重要です。そうすれば、いろいろな情動の間にほどよいバランスが取れて、スマートフォンを「ほどほど」に使うことができるようになります。スマートフォンでも何でも、テクノロジーは「ほどほど」の使い方をするというのがウェルビーイングには重要なのだと思います。

—そう聞くと、「ほどほど」というのは意義深い言葉に取れてきますね。

七沢:そうですね。サイボーグとしての人間にプラスとマイナスの情動が生じることは自然なことで、この間を揺らいでいる状態を表現するのに「ほどほど」という言葉はしっくり来ます。

信原:「ほどほど」という言い方だと雑な言葉に聞こえるかもしれませんが、「ほどよい加減」ということで、両極端に走ることのない「中道」や「中庸」ということですね。しかも真ん中にとどまるのでもなく、中間を常に揺れ動くというウェルビーイングのイメージを表現しています。ウェルビーイングはまさに「ほどほど」ということなんです。

参考文献:「情報技術とウェルビーイング:アジャイルアプローチの意義とウェルビーイングを問いかける計測手法」渡邊淳司、七沢智樹、信原幸弘、村田藍子 『情報の科学と技術』(2022)72巻9号 p.331-337

[図2]現代哲学への招待生まれながらのサイボーグ―心・テクノロジー・知能の未来

[図2] 『現代哲学への招待生まれながらのサイボーグ―心・テクノロジー・知能の未来』
アンディ・クラーク 著、呉羽 真、久木田水生、西尾香苗 訳、丹治信春 監修/春秋社(2015)
テクノロジーと人間の融合から「心とは何か」「人間とは何か」を問い直している。

[図3]技術哲学講義

[図3] 『技術哲学講義』
M.クーケルバーク 著、直江清隆、久木田水生 監修・訳、七沢智樹、前田春香、水上拓哉、猪口智広 訳/丸善出版(2023)
最新かつ包括的な技術哲学について、古典的な理論を押さえつつ分かりやすく解説。

[図4]情動の哲学入門―価値・道徳・生きる意味

[図4] 『情動の哲学入門―価値・道徳・生きる意味』
信原幸弘 著/勁草書房(2017)
信原さんは本書において、幸福な生の実現には理性的であることよりも、状況にふさわしい行動を生み出すさまざまな情動の働きに着目すべきとしている。


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