情報技術が人間の感情や行動に大きな影響を与える現代社会において、人間の自律性はどれほど担保されているのでしょうか。そして、それは、私たちの過去、現在、未来をどのように形作るのでしょうか。IT起業家・情報学者のドミニク・チェンさんに寄稿していただきました。
ドミニク・チェン
博士(学際情報学)、早稲田大学准教授。クリエイティブ・コモンズ・ジャパン理事、株式会社ディヴィデュアル共同創業者。IPA未踏IT人材育成プログラム・スーパークリエイター認定。2016、2017年度グッドデザイン賞審査員兼フォーカスイシューディレクター。近著に『謎床』(晶文社、松岡正剛との共著)。訳書に『ウェルビーイングの設計論』(BNN新社、渡邊淳司との共同監修)等。
プロフィール写真:荻原楽太郎
ユートピアを思い描くことは人間の生存本能である
ユートピアとは「非実在の場」のことだが、この語を含めた本を16世紀に書いたトーマス・モアは現実の社会を批判するために、比較可能なある種の理想郷を仮設した。いわば現実を改善するための議論を巻き起こすという目的で、比較対象となる存在しない世界を想像したわけだが、この人間の能力はどのように獲得されたのだろうか。未知の空間や時間に想像したものを投影することが「プロジェクト」という言葉の原義だが、これは自然言語によって世界を記述できるようになって発達した能力だと考えられる。現在の状況だけに注視するのではなく、過去のデータから学習し、よりよい未来のかたちを構想する。たとえば、能楽師の安田登は、古代の中国において、羌族が殷人の圧政に立ち向かい周王朝を建てた時期と、現在の漢字の起源である甲骨文がより構造化された金文へと発展した時期が符合することに注目し、それまでは殷人によって生贄に供される他律的な存在であった羌族が文字を学んだことによって、圧政を回避して自律的な存在へと転化する未来を想像するに至ったのではないかという説を書いている。
また、物理学者の池上高志は、生命の本質とは逃げることである、と述べている。ユートピアを構想するということを、生存を脅かす状況から逃れるための生物的な本能を人間が技術によって高度に発展させた能力であると捉えれば、殷周の歴史は、自然言語という技術を活用することで苦痛を生む現状を書き換え、自由な未来を志向するという「技術的自由論」の原型であるといえる。
それでは21世紀を生きる今日の私たちは、どのような状況から逃れるためにユートピアを構想するのだろうか。核兵器による戦争やテロ、自然災害や疫病や貧困といった生物的なレベルでの生存を脅かすリスクは依然、地域毎の差はあれど、グローバルレベルで多数存在している。こうした直接的な生存に対する脅威に加えて、私たちは精神的なレベルでのリスクにも直面している。職場においては過重労働やパワーハラスメントによる抑うつ状態の発症と自死、家庭においては虐待や家庭内暴力、教育の場においてはいじめ、公共では人種差別や性差別、障害差別といった問題が噴出している。
自律性という概念を、自らの運命を律するための自由として定義するならば、その自由を迫害する要因が苦痛を生む。そして、苦痛から逃れることができない状態が続くと、運命という名の決定論に従う他律的な存在になってしまう。私たちは儀式の生贄という究極的に他律的な存在であった殷周時代の羌族と比べて、どれほど自律性を獲得したのだろうか。
社会を自律性という視点で再構成する
心理学者エド・ディーナーらによる各国の人生満足度を調査した研究[1]によれば、日本においては1958年から1987年までの間でGDPが右肩上がりで上昇したが、国民の人生満足度は横ばいであることが示されている(下図)。同様の調査はその他の地域でも行われてきたが、200年スパンで見ても、やはり上昇が認められなかったり、場合によっては19世紀よりも下がっているとする計量的研究もある[2]。これが本当だとすれば、人類の技術的自由論は発展しなかったということなのだろうか?それらがどれだけ完全ではないにせよ、医療と公衆衛生の進歩や絶対君主制から議会民主制への移行などの歴史的転回によって自律性が向上した人間の総数も上がっているといえるだろう。しかし、同時に地球上の人口も爆発的に増加していることを考慮すれば、先述した現代の課題が発生したことによって、他律的な生を強いられている人も増加しており、全体の比率は変わっていないということなのかもしれない。だとすれば、私たちが漸近すべきユートピアの姿は自明となる。政治、法、市場から心身の健康まで、社会を構成する諸システムを分割するのではなく、ホリスティックな視野に立ってそれらの相関を解明し、全社会的な自律性を向上させること。そのためには、私たちの技術論を工学や市場原理といった狭い評価基準から解放し、自律性という生命的な指標を基に再構成することが求められている。
日本における経済成長と主観的ウェルビーイング
[1] E. Diener, R. Biswas-Diener: “Will Money Increase Subjective Well-Being?”. (2002) Social Indicators Research 57:2;119-169.
[2] T. Hills, E. Proto, D. Sgroi: “Historical Analysis of National Subjective Wellbeing Using Millions of Digitized Books”. (2015) Forschungsinstitut zur Zukunft der Arbeit Institute for the Study of Labor 9195.