犬飼 佳吾
Keigo Inukai2010年北海道大学大学院文学研究科卒業、北海道大学博士(文学)。明治学院大学経済学部経済学科准教授。Ecole Polytechnique VisitingResearcher、大阪大学社会経済研究所講師を経て、2018年より現職。専門分野は、行動経済学、実験経済学。社会的選好の認知神経基盤、集団意思決定や群知能、学習理論と意思決定の研究を進めている。
人は合理的な理由だけで
他人に協力するわけではない
—犬飼さんの研究にも関わる、人の利他行動について教えてください。
犬飼:利他行動の研究はこれまで、大きく分けると、人間の研究と昆虫など他の生物の研究の両輪で行われてきました。人の利他行動の研究については、「Do for Others」という考えはどうすれば獲得できるのかという問いのようにモラルや宗教的な価値観に基づいた研究です。一方、生物の研究は、そもそも利他行動を取るわけがないということを起点とし、進化の歴史の中で、生物に利他的行動が現れるならばどういう条件なのか研究されてきました。典型的な例として、ハチやアリなどの社会性昆虫が挙げられます。働き蜂や働き蟻は、女王蜂や巣の中のほかのアリのためにエサを集めたりするわけですが、その理由のひとつとして、親族関係がある種の遺伝子を残そうとして協力するということが言われています。これは、進化のアルゴリズムとしてはサステナブルですね。
一方の人間社会では、なぜ規範やモラルが生じるのか明らかではありません。もちろん家族や身近な人のほうが協力しやすいかもしれませんが、見ず知らずの遠くの人に寄附したりもするのですから、単に血のつながりがあるから協力するわけでもありません。そんな中で、ツールとして入ってきたのが「ゲーム理論」です。ゲーム理論とは、自分の利得が他者の行動にも依存する状況(ゲーム)の中で、合理的に判断する個人を想定して、人の行動を説明しようとするものです。現在、私が取り組んでいる研究は、ゲーム理論を枠組みとした実験によって、合理性だけではない人間の行動をあぶり出し、人間社会における倫理やモラル、価値や協力をも生み出す新たな「人間モデル」を解明しようというものです。
—具体的にはどのようなゲームを使うのでしょうか?
犬飼:「最後通牒ゲーム」という実験があります。2人組を作って片方に1万円を渡し、それを2人の間で自由に分け合って持ち帰っていいという条件を出します。ただし、相手が提案を拒否して成立しなかった場合は全額没収されます。例えば、1万円の元手を相手に3000円渡して自分が7000円を持って帰るというオファーをしたとします。このとき、相手が3000円では少ないと考えて拒否すれば、両者ともお金はもらえません。受け取る側の合理性だけで考えれば、渡されたのが1円であっても拒否して没収される「0円よりはマシ」と考えるはずですが、実際のゲームではほとんど拒否されます。いくらなら受け入れられるかというと、渡す側もだいたい五分五分にしようとするし、受け取る側もそれを望みます。これは、ほかの動物では見られない公平性や平等性という人間特有の要素と言えます。
最後通牒ゲーム ルール: 渡された10,000円をAがBに分配して、Bが承諾した場合は持ち帰ることができるが、Bが断った場合は二人とも持ち帰ることができない。従来の経済学の視点で考えればBは1円でも利益があるため承諾するはずだが、実際には不公平さを感じ、利益を得られなくなるのに断ってしまう。
身体性を伴う情報が
人の判断を変化させる
—なぜ、このような判断が起こるのでしょうか?
犬飼:ひとつの説明として、それが互恵性に基づいた行動だということが挙げられます。長期的な人間関係が伴う場合、お互いに良いことをし合うという行動は利益となり得るので理解できます。しかし、見ず知らずの場所で目の前の人に良いことをする行為は説明できません。もうひとつは、内集団の公共財を維持しようとする考えによるもの。人は集団で生きていて、その中で、例えば公園をきれいにするといった誰のものとは決めにくいものを大事にするという考えがあります。また、今有力な説は、評判によるものです。誰かに良いことをすれば、それが直接自分に返ってこなくても、その情報が周囲の人などを巡り巡って最終的に自分に返ってくるという、評判をベースとした間接的な互恵性に基づく贈与が考えられるというものです。いずれにせよ実験を通して見えてきているのは、どうもゲーム理論の前提だけでは人間行動は説明できず、むしろ、日頃意識していない要素が自分たちの判断に大いに関係しているのではないかという点です。例えば、お互いの様子を見えなくするなど、実験室の中で特殊な状況をつくり出して同様の実験を行うと、途端に協力が得られなくなったりするのです。
—身体や触感とはどのように関連しますか?
犬飼:「トロッコ問題」という、倫理学でよく話題にされる話があります。5人を助けるために、1人を犠牲にすることは許されるのかという問題ですが、レバーで別の路線にトロッコを引き込むことで5人が救われるのであれば、5人を助けるほうが理にかなっているという考えがあります。しかし、それが「目の前にいる人を線路に突き落としてトロッコを止めるか?」という質問に変わると、こちらは「突き落とさない」という判断をしやすくなります。これはおそらく、レバーを倒すという間接的な方法ではなく、突き落とすという直接手を下す身体性を伴った行為になったとき、人間の判断基準が変わってしまうことに起因するのではないかと思います。
実際に顔を合わせたり、握手をしたりすると、協力関係が築かれやすくなるということは、これまでの実験でも明らかになっています。ただし、今のコロナ禍の状況でも見受けられますが、報道などを通して単に数字で見せられた情報と、直接目にしたり身体を通じて得られる情報とでは、情報処理過程に違いがあると考えています。人とAI や機械が共存していく社会を前にする私達にとって、数字だけの情報と身体感覚を経た情報がどのように認知的に処理され行動に反映されるのかに大変興味を持っています。両者の情報処理過程は単純な二分法ではなく、どのような関係性にあるのかを見据えながら検証していく必要があると思います。そうした研究の先にゲーム理論だけでは説明できない、新しい人間モデルがあるのではないかと考えています。
「ある人を助けるために他の人を犠牲にできるか」を問う議論。2本の路線があり、それぞれの線路の上に片方には5人、片方には1人の人がいます。そこにブレーキが壊れたトロッコが猛スピードで走ってきます。そのまま進むと5人が確実に犠牲になりますが、目の前のレバーで別路線に引き込めば1人が犠牲になります。そのときにレバーを操作して別路線に引き込むべきかどうかという問題。