道具としてのテクノロジーから
人と共に生きる
コンヴィヴィアル・テクノロジーへ
自律と他律の間にあるテクノロジーデザイン
今号のふるえでは、テクノロジーと人の関係を探っていきます。まず、テクノロジーと人間、社会や自然はどう共生していくのか、『コンヴィヴィアル・テクノロジー』の著者で、デザイン・イノベーション・ファーム Takramのディレクターとして活躍する緒方壽人さんに話を聞きました。
緒方壽人
Ogata Hisato
デザイン、エンジニアリング、アートなどを領域横断的に活動するデザインエンジニア。東京大学工学部卒業後、情報科学芸術大学院大学(IAMAS)、LEADING EDGE DESIGNを経てTakramのディレクターに就任。2015年よりグッドデザイン賞審査員を務める。
デザインとエンジニアリングの共存
—緒方さんがデザインエンジニアとして活動する経緯について教えてください。緒方壽人(以下、緒方):私は東京大学工学部の機械工学科を卒業してからIAMAS(現:情報科学芸術大学院大学)を経て、そこからインダストリアルデザイナーの山中俊治さん率いるLEADING EDGE DESIGNへ行きました。その後、Takramへ参画し、ディレクターとして月面探査ローバー「HAKUTO」の意匠コンセプト立案とスタイリングを担当したりしました。
—工学の分野から芸術の分野へ、そして、デザインへと進まれたわけですね。緒方:学部は2000年卒なのですが、当時はインターネットサービスの黎明期で、Webデザインとコーディングも分かれておらず混沌としており、そこには可能性を感じていました。VR 研究の先駆けである廣瀬通孝先生との出会いもあって、UIを含むデザインに興味を持ち、IAMASをご紹介いただいた経緯があります。
また、東大工学部在学中に山中さんの授業があって、そこでプロダクトデザインに興味を持ち、現在のソフトウェアとハードウェア、デザインとエンジニアリングという領域横断的な活動の基盤がそろったのかなと感じています。
—著書のタイトルにもある「コンヴィヴィアル」というテーマが出てきたきっかけは何でしょうか。緒方:Takramの活動の中でJSTの「ERATO 川原万有情報網プロジェクト」(2015~)に参加したのがきっかけです。これは川原圭博さん(東京大学教授)をリーダーとした、IoTの未来を研究し、社会に実装していくプロジェクトです。プロジェクトのビジョンメイキングから参加し、ディスカッションを通して生まれた僕自身の考えをまとめたものが、私が執筆した『コンヴィヴィアル・テクノロジー』です。
思想家イヴァン・イリイチが提唱した概念に「コンヴィヴィアリティ」(*編注:con-viviality。共にいきいきすること。日本語では「自立共生」とも訳される)があります。現在の人間とテクノロジーの関係を考えたとき、テクノロジーが環境に溶け込んで見えなくなっていくという考え方がある一方で、そこでは技術がブラックボックス化してしまうという負の側面もあります。
私はプロジェクトの議論の中で、テクノロジーの存在が可視化され「自律」したものとして捉えられる、つまり、単なる道具ではなく他者のような存在になっていくのではないかと考えるようになりました。そこでイリイチの「コンヴィヴィアリティ」、つまり「ともに生きる」ことがテクノロジーの未来にとって重要なキーワードではないかと考えるようになったわけです。
テクノロジーにおける
自律と他律のバランス
—コンヴィヴィアルという言葉は、どのようなニュアンスで捉えるとわかりやすいでしょうか?
緒方:イリイチに直接師事した哲学者の山本哲士さんが、メキシコでの逸話を紹介しています。ある山村に異質な人(他所からの宣教師など)が訪れて話をしました。その話は、村にはない異質なものでありながら村人の生活の役に立ち、その人たちと村人の時間が楽しくいきいきとしたものであることをイリイチは「コンヴィヴィアルであった」と表現するそうです。つまり、外部という他律的なものと出会い、そこで相反するものが時間を共有する中で、内部のものにとっても自律的に良い作用が働くことを意味し、単に「共に生きる」だけではない複雑なニュアンスを持つものなのです。
—なるほど。では、コンヴィヴィアルなテクノロジーとはどのようなものでしょうか?緒方:イリイチの著作は、1970年代に書かれた本ということもあり、彼はテクノロジーを「コンヴィヴィアリティのための道具」(Tool f or C onvivialityもしくはTechnologyfor Conviviality)と見なしているところがあります。しかし、AIなど現代のテクノロジーは、道具としてだけではなく、共生の対象として捉えられる、つまり「Convivial Technology」という考え方が必要になるのだと思います。結局、テクノロジーとの関係においても、人間同士のコンヴィヴィアリティのように、自律と他律のバランスを取ることが重要であるということです。
『コンヴィヴィアル・テクノロジー人間とテクノロジーが共に生きる社会へ』
緒方壽人 著/ビー・エヌ・エヌ(2021)
『コンヴィヴィアリティのための道具』
イヴァン・イリイチ 著/渡辺京二、渡辺梨佐 訳/筑摩書房(2015)
2つの分水嶺
—従来のテクノロジーに対する考え方については、どのような課題を感じていましたか?緒方:何事においても二元論的に「是か非か」「善か悪か」になりがちな考え方には違和感がありました。イリイチの思想で大事にしたいと思ったのが「2つの分水嶺」という考え方です。人間の能力を拡張し生産性を拡大させる道具としての「第1の分水嶺」を超えると、どんどん、人間を操作し依存させ主体性を奪ってしまう道具としての「第2の分水嶺」に近づいていくというもので、ある道具がコンヴィヴィアルなものになるかどうかは、その2つの分水嶺の間に留まれるかにかかっているというものです。
イリイチはコンヴィヴィアルな道具として自転車を例に挙げています。自転車は、人間が走る以上のスピードで移動することを可能にし、人間の可能性を拡大しましたが、自動車や飛行機などは速く移動すること自体が目的となり、さらにそれを使用できる者とできない者の間に格差をもたらしたと指摘しています。自転車はその分水嶺の間に留まるバランスの取れた道具というわけです。善か悪か決めるのではなく、不足と過剰の間でバランスを保てるかどうかが重要という考え方は、まさに目からウロコでした。
2つの分水嶺のイメージ
ある道具を1つの分岐点で良し悪しを決めるのではなく、道具の影響力増大に伴って第1の分水嶺と第2の分水嶺の間でバランスを保てることがコンヴィヴィアルであることの条件だ。
緒方:1996年に出版された『インターネットが変える世界』という本では、黎明期のコンピュータやインターネットを表現する際に、ハッカーたちはコンヴィヴィアリティというイリイチの用語を盛んに使っていたという証言があります。しかし、かつてはコンヴィヴィアルな道具であったコンピュータやインターネットも、現在は、第2の分水嶺を超えてきているのかもしれないと私は感じています。もちろん、テクノロジーの存在を否定したり、テクノロジーのなかった昔に戻りたいという話ではありません。私自身も現在は長野に移住し、リモートワークを行っているのですが、それが可能なのもインターネットがあったからです。このバランスを取っていこうというのが私の著書のメッセージでもあります。
—インターネットという他律的なテクノロジーから「移住」という自律的な話が出てくるのは興味深いですね。緒方:著書でも触れましたが、「自律のための他律」をうまく使うことも重要です。目覚まし時計を使うことを「目覚まし時計に依存している」とはあまり言わないですよね。これは他律ではなく、自律的に起きるために目覚まし時計というテクノロジーを使っています。スマート体重計で体重をキープすることも、スマートウォッチの通知に従って定期的に運動や休憩をすることも、自分の意志の限界をわかった上で自律的に健康を守るために選択しているわけです。
—なるほど。さらに人間同士など、あらゆるものにコンヴィヴィアルな関係は重要となりそうです。緒方:人間同士の話で言えば、渡邊さん(本誌編集長)とご一緒した『情報環世界』では、人にはそれぞれの環世界があり、わかり合えないところからどう乗り越え、そのためにどうコミュニケーションしていくのか議論しました。
人間は根本的にわかり合えない存在であったとしても、そうあり続けられるほど強くないし、誰かにわかってもらいたいというのが本当のところではないでしょうか。誰にも依存しない自律的な個人というのはありえず、むしろ依存先を複数持つことが重要ではないかとも感じています。
「わかる!」という言葉が出てしまう、自分と感覚が同じ人が見つかったときに感じる、何も言わなくても通じ合える仲間がいたという感覚もすごく大事なはずです。もちろん、その周りにはわかり合えない人がいて、そこの間にもバランスがあるのかなと。人間同士の関係においても、バランスの取れた心地良さがあることが、人と人の関係の中に立ち上がるコンヴィヴィアルな心地よさ、つまり、「わたしたちのウェルビーイング」にも通じるように思います。
『インターネットが変える世界』
古瀬幸広、廣瀬克哉 著/岩波書店(1996)
『情報環世界── 身体とAIの間であそぶガイドブック』
渡邊淳司、伊藤亜紗、ドミニク・チェン、緒方壽人、塚田有那ほか 著/ NTT出版(2019)