人類学と脱暴力から捉える
社会のデザイン原理
人類学とデザイン。そして脱暴力。一見するとつながりが見えにくいこの3つのキーワードが重なるとき、見えてくるものは何か。社会をデザインの視点で捉え、ソーシャルグッドに向かうための仕組み作りやリデザインに取り組む、人類学者の中村 寛さんに話を聞きました。
中村 寛
Yutaka Nakamura
人類学者。多摩美術大学教授。アトリエ・アンソロポロジー合同会社代表。専門は文化人類学。ニューヨーク市ハーレムでのフィールドワークを経て、「周縁」における暴力、社会的痛苦、脱暴力のソーシャルデザインなどのテーマに取り組む。また、人類学に基づくデザインファーム「アトリエ・アンソロポロジー」を立ち上げ、企業、デザイナー、経営者らと社会実装を行う。著書に『アメリカの〈周縁〉をあるく~旅する人類学』(平凡社、2021)など。
脱暴力とデザインの出会い
—中村さんは、「脱暴力」や「デザイン人類学」など幅広いジャンルでのご活動がありますが、それらはどうつながってきたのでしょうか?
中村 寛(以下、中村):最近、『脱暴力の思想』いう連載を始めました(図1)。冒頭の記事では、連載開始にあたって「暴力」をある程度定義しておこうと、暴力概念の範疇について書きました。暴力には、目に見えやすい身体的な暴力だけでなく、目に付きにくい暴力もあります。暴力を身体的な行為として定義してしまうと、脅しや教唆、あるいは権力といった暴力は見えてきません。そういった目に付きにくい暴力は、日常の制度や文化の中に潜り込んでいて、人が何とも思わないくらい自然化されてしまっていることもあります。ナチスドイツ親衛隊のアドルフ・アイヒマンを例として挙げますが、彼は虫も殺せないぐらい神経質な人だったといいます。その一方で、移送計画のスペシャリストであり、積極的にそれを推し進めた結果、アイヒマン自身は誰にも指一本触れることなく、100万人以上の命が失われました。
また、暴力には大きく2つの方向性があります。1つは、権力と一体となって対象を閉じ込めようとする暴力。もう1つは、ルール自体を壊す暴力です。一般には、後者を「暴力」と名指ししやすいのですが、より大きな問題としなければいけないのは、権力と一体となりやすい暴力、マジョリティーが振るうほうの暴力です。こういった概念整理や実際の脱暴力に向けた取り組みを含め、思想としていきたいと考えています。
[図1] オンラインマガジン「雨晴(あまばらし)」にて連載が始まっている『脱暴力の思想 ──殺される《叫び》のために』。第1回では『暴力の縮減可能性』として、「見えにくい暴力」について論じている。
—そこにデザインが加わっていったのは、どのような経緯からですか?
中村:20世紀から21世紀にかけて、暴力の批判的分析や思想史的研究が数多く行われました。しかし、どんなに優れた研究も、実際の暴力を止めるには至りませんでした。まさに現在でも20世紀的な戦争が起きているわけです。私自身、残りの研究者人生では、考えたり整理するだけでなく実際に脱暴力の仕組みを作ることに多くの時間やリソースをかけたいと思うようになりました。そしてその頃、デザイナーの方々と話をするようになり、脱暴力の社会実装の方法としてデザインが有効なのではと強く感じるようになりました。
例えば、福祉の領域にデザインを持ち込もうとしているUMA/design farmの原田祐馬さんというデザイナーがいらっしゃいます。現代社会ではデザインは、あるところにはあり過ぎるくらいありますが、教育や介護の現場など、ないところには徹底的にない。「ない」というのは厳密な言い方ではないですが、「悪いデザイン」が半ば非意識的に継承されている。そういう場にちゃんとデザインを入れていったら、もう少し「よい」社会ができるのではないかと。それを言葉で主張するのではなく、淡々と手足を動かして進めていて、「この人は活動家だな」と思いました。また、原田さんはとてもよく現場を歩いています。このようにデザイナーには、新しい社会設計やフィールドワークなどにも活動範囲を広げている人がおり、「脱暴力のデザイン」を一緒に作ることができるのでは、と思ったのが経緯です。
—脱暴力をデザインするというのは、具体的には、どのように考えればいいのでしょう?
中村:例えば、脱暴力に向かう社会制度について考えてみます。私たちは、罪の責任を、罪を犯した個人に問うことに慣れてしまっています。連続殺人犯が現れたら、一方的に、その人を悪としてモンスターのように扱い、法律も懲罰的ないし報復的な手段をとります。一方で、人が犯罪を犯しやすくなる社会的条件(生育環境や政治・経済的状態など)や身体的条件(脳の構造や遺伝)が科学的に明らかになりつつあります。だとしたら、もう少しよく考えて議論をしなくてはいけません。所与の条件を明らかにした上で、その人が人間らしく、ほかの人に危害を及ぼさないように生きていくためにはどうすればよいのか、解像度を上げて問うことができるはずです。近年では、法律も、単に罰を与えるのではなく、罪を犯した人の問題もそれに巻き込まれた人の問題も 解決に導く治療的正義(Therapeutic Jurisprudence)や、当事者全員で問題の文脈やその解決方法について、納得するまで話し合う修復的司法(Restorative Justice)といった新しい司法モデルが出てきています。これらは、大きな意味で社会のリデザインだと言えます。
例えば、離婚裁判で法廷で白黒つけようとすると、子どもの目の前で両親がお互いの一番悪いところをののしり合うことになります。子どもはそのようなことを聞きたくないでしょうし、両親はお互いに好意を持っていた時期があったからこそ結婚したはずなのに、相手の悪いところばかり見せようと法廷でがんばるのは誰にとっても不幸だからやめようと。そこで、修復的司法であれば、向き合って徹底的に話し合う形でメディエーションやファシリテーションが行われるのです。
—日本にも、そのようなやり方はあったのでしょうか?
中村:どんな形であれ修復的司法に近い正義の追求の手段を持たなかった社会はないだろうと言われており、私もそう思います。修復的司法とは異なるかもしれませんが、こんな話があります。宮本常一という民俗学者が小さな集落で古文書を借りたのですが、その時、集落の人々は3日間かけて話し合ったそうです。宮本が待つ間、いろいろな所で話し合いがなされ、最終的には誰にも角が立たないようなやり方で、貸してもよいという合意形成がなされました。その際、多数決は取られていません。
このやり方は時間をかけて、だんだんと腹落ちをしていくプロセスを共同で作り上げているものだと言えます。それぞれの判断やその根拠、感情まで含めて、いろいろな事情が話されます。話し合いの場が意思決定をする場というだけでなく、それを取り巻くいろいろなことを扱うための仕組みだったということです。これは、いわゆる代議制民主主義とは異なる考え方で、今再注目されてもいい仕組みです。
特に、わだかまりや不信感、壁があるときに時間をかけるのは大事です。相手と何日も話をして、最終的に相手の主張に納得するかは人によりけりですが、少なくともお互いに憎むべき相手ではないという認識にたどり着くことはできるのではないでしょうか。言葉の内容が先にあるのではなくて、人としての信頼があって初めて言葉が入ってくるという考え方です。ちなみに、人類学者が初めてフィールドに入る際、関係構築に1〜2年、あるいはもっと長い時間をかけることがありますが、それはやはり、信頼関係がないとちゃんとしたことを語ってもらえなかったり、逆にこちらの話を聞いてもらえなかったり、あるいは、ある種の人やものに会わせてもらえなかったりするからです。つまり、共同作業をやろうとしたら、信頼関係は何よりも重要なのです。(写真2)。
[写真2] 人口減などの課題を抱える佐渡島で、中村さんは、実際に現地に入り、フィールドワークや対話的インタビューなどを含むデザイン人類学的なアプローチを通じて社会課題を捉え直すプロジェクトにも参画している。
社会のデザインには「楽しい」ことが重要
—信頼を築く場では、関係構築を目的とすることを明示的に伝えるのでしょうか? それもやや不自然な感じがします。
中村:そのバランスは難しいですね。場には余白とか遊びがあることも大切ですし、場の参加者たちは、必ずしも関係構築を意識しているわけではありません。なので、参加する人たちにとっては、入り口が楽しければ楽しいほどいい。それをうまく実装したのが、2022年のグッドデザイン賞で大賞に選ばれた「まほうのだがしやチロル堂」です(図3)。
彼らが用意したのは楽しい「入り口」でした。18歳以下の子どもが100円でガチャを回すと、500円のカレーが食べられるといった仕組みです。併設した居酒屋で大人が楽しく飲んだお金の一部がカレーの原資になっているのですが、そこでは大人と子どもの交流が自然に起こります。
そう考えると、楽しめるということは、仕組みにはとても重要なことかもしれません。倫理だと人は動かないですし、動いても一時的です。あるいは、すごくとがった人しか集まらない。そうではなくて、みんなを巻き込んで継続し、大きくしていこうと思ったら「楽しい」とか「ワクワクする」は必須条件なのです。
また、継続のためにあえてもう1つ加えるとしたら、さらにお金の仕組みが必要です。私は、社会活動に熱心な人たちや、運動の現場にいる人たちをたくさん知っています。ただ、無理をして最終的に本人が倒れてしまったり、個人がしょい込むことになって持続しない現場も多く目にしてきました。それはとても辛いことです。であれば、お金の仕組みも巻き込んで、ソーシャルグッドを作っていくやり方を考えたほうがいいのです。
[図3] 「まほうのだがしやチロル堂」では、大人が「チロる」ことで子どもに駄菓子屋で楽しむ空間を提供する仕組みがあり、楽しみながら間接的に子育てに参加できる。店舗は奈良県生駒市にあるが、オンラインでの参加も可能。
—社会をデザインする原理として、共同して腹落ちするプロセスや、「楽しい」を重要視するデザイン人類学はとても興味深いです。
中村:大きな社会的な仕組みを作る際には、デザインのアプローチが生きると思っています。もちろん、デザインにもネガティブな側面はあります。広告によって必要ないものを買ってしまったりとか、クリエイティビティがある種の暴力として機能した例はたくさんあると思います。今でもそういうものはたくさんありますよね。でも逆に言うと、欲望を引き出すことができて、消費行動にまで至るのなら、なぜそれがソーシャルグッドな方向に生かせないのかと。つまりは、それが正しいからやるのではなくて、それが好きで心地よいから、それが欲しいから、環境問題を解決してしまおうと。意識下の行動をデザインするという紙一重な仕事をデザイナーはやっていると思います。それを人類学者、あるいは歴史学者、哲学者と組むことによって、もう少しベターな設計を考えられるのではないかということを今思っているところです。
また、先ほど、仕組み作りにおいて「楽しい」は重要であると述べましたが、社会問題があってそれがどれほど重いものであっても、デザイナーの人たちは社会と闘うのではなく、ベターな提案をしようとします。より良くするにはどうすればいいか考え続け、明るくアプローチされる方が多い印象です。その明るさは、私になかった部分なので、だからこそ、一緒にやれることがありそうだなと思っています。もちろん、明るく楽しければ何でも構わない、ということではまったくないからこそです。
そういえば、先日、20年以上前の私の手帳が出てきて、その中のメモに “批判をするより中に入って仕組みを作れ”と書いてありました。今やろうとしていることは20年前からすでに考えていたようで、ようやく今、動き出せているのかなと感じています。