災禍とウェルビーイング
心理や社会の振る舞いの縮図としての災害研究私たちの生活は、同じ日常が永遠に続くわけではありません。特に日本では、突然、地域の人たちが同時につらい体験をするような大災害の可能性は常にあります。このような災害時の人々の心の働きや社会の現象をどのように理解すればよいのか、ウェルビーイングをどのように捉えればよいのか、災害情報と社会心理を研究する関谷直也さんに話を聞きました。
関谷直也
Naoya Sekiya
1975年生まれ。東京大学大学院情報学環総合防災情報研究センター准教授(災害情報論、社会心理学)。博士(社会情報学)。東京大学卓越研究員。東日本大震災・原子力災害伝承館上級研究員。福島大学食農学類客員准教授を兼務。2020年東京大学総長補佐。主著に『災害情報』(東京大学出版会)、『風評被害』(光文社)など。。
災害時に、人間の心理や社会の振る舞いの本質が現れる
—関谷さんの研究について教えてください。
関谷:災害時の情報伝達と社会心理に関する研究をしていて、研究分野は主に自然災害と原子力災害です。例えば、水害や土砂災害といった自然災害が発生した際に、人々がどのように情報を理解し避難をするのか、もしくはしないのか。また、災害後のモノが手に入りにくい状況では、実際は流通が厳しいだけなのに、人々が不安になり、それを買い占めだと勘違いしたりします。そういった人々の心理や集合現象にまつわる研究をしています。
そして、個人の心理だけでなく、広い意味では「災害観」と呼ぶのですが、災害に対して社会がどう対峙していくかについても研究しています。例えば、社会として災害を天罰だとあきらめる運命論の立場もあれば、がんばれば乗り越えられるとする精神論の立場もあります。また、災害報道は、その直後や節目にはたくさんなされるのですが、それが過ぎればほとんどなくなります。社会の中でみんなが災害を忘れていく、災害が風化していく過程も研究対象です。
—災害をテーマに選んだのはなぜですか?
関谷:よく「災害に遭ったのですか」と聞かれるのですが、そういうわけではなく、もともとは環境問題と心理の研究をしようと思い、その延長線上で災害現象に興味を持つようになりました。
例えば、災害時の備え方というと、避難所に行ってどのように生活するのかといった話になりがちですが、本来はそこが重要ではなくて、どう生き残るかがまず大事なはずです。「正常性バイアス」といいますが、災害が起きても、われわれはその状況を日常の延長と考えてしまうことがあり、その結果、逃げ遅れてしまうこともあります。災害後のこと、避難所での生活などは多く研究されているのですが、災害に直面したときの心理に関する研究はあまり多くありません。そして、心理学の分野でのより現実的な課題として、災害に興味を持つようになりました。
—災害時の心理の特徴を教えてください。
関谷:災害時、多くの人の気持ちがシンクロします。災害では、被災した個人だけでなく、その地域の人が一斉につらい経験をしたり、亡くなるという悲劇が起きますが、その際には、多くの人が一斉に災害のことを考えて、不安になります。そのため、共通の不安を刺激する情報があると人々はそれに過剰に反応し、簡単に流言が発生します。逆に、平時に流言があまり発生しないのは、普段は人々がバラバラのことを考えているからです。
結局、平時と異常時では心理状態がまったく異なります。平時に災害が来ると対応できないし、異常時に少しでも何か起こると些細なことに過剰に反応してしまう。そして、それが個人ではなく、集団の現象として起きてしまう。そこが災害時の心理としては重要なのだろうと思います。
悲劇がそのまますぐに不幸につながるわけではない
—人々は災害からどうやって立ち直っていくのでしょうか?
関谷:災害から少し時間が経つと「災害ユートピア」と呼ばれる現象が起きます。被災地外の人がボランティアに向かったり、炊き出しをしたり、助け合おうとします。それを受ける側としても、自分たちがつらいときに助けてくれたと感謝します。それらが相まって、被災地においては幸福度が高まるという特殊な瞬間が生まれます。それは、災害から立ち直るときのひとつのメカニズムなのかもしれません。
しかし、このユートピアは永続しません。災害から時間が経過してから、仮設住宅での生活によるストレス、そこからアルコール依存症や精神的な病を発症したり、自死を選ぶ人が増えたりすることもあります。つまり、災害が必ずしもダイレクトに精神的苦痛やウェルビーイングの低下を意味するわけではなく、そのタイミングにはズレがあるため、それぞれの段階や状況に応じた対策が必要になります。
—災害によって、住む場所を失ってしまうこともあると思います。そのような場合、住んでいた人は戻ってくるのでしょうか?
関谷:それは難しい問題ですね。福島県の沿岸地域は、まさにそういう状況です。年月が経って、空間的には戻れるようになっても、戻れる人と戻れない人が出てきています。子どもの学校や仕事など、ほかの地域で生活基盤ができてしまっていることも多いでしょう。元の居住地には仕事がないので戻れないこともありますし、高齢者の場合、医療の問題もあります。結局、全員が戻って元の町を作り直せるわけではないのです。
「戻る/戻らない」ということではなく、町が一度崩壊してしまって元どおりにはならない、それでも新しく町を再興しなければならない。この状況をどう受け止めるかという問題なのです。
—災害前に住んでいた地域の人たちが、一緒に戻ることはないかもしれないのですね。
関谷:住んでいた地域に対する考えは結構バラバラです。戻りたいけれども戻れないという人もいれば、ほかの地域での生活がつらかったので戻る人もいます。一方で、過去のしがらみから逃れることができてよかったという人もいます。
ただ、それはよく考えると、被災地でなくても同じことです。その地域から離れたくて離れる人ばかりではありません。自分の住む地域に職がないから出て行ったり、高校卒業後に県外の大学に行ってそのまま戻ってこなかったり、人が元いた街から離れることは普通にあります。災害の場合、それが急に凝縮して起こっているだけと捉えることもできて、日本の地域で起きていることや、人口減少の縮図ともいえます。
—災害が少ない場所に移住するということも考えられるのでしょうか?
関谷:防災を目的に海沿いの町全体を高台に移転するというのも、防災集団移転という一つの方法です。ただ、そういった対策が進んでいるところが多いわけでもありません。それに、海沿いの町に住もうとする人が減り、衰退してしまうことは、将来の被災者を減らす一方で、今そこで暮らしている人々のウェルビーイングの観点からは問題があるでしょう。
—最後に、関谷さんがウェルビーイングについて感じていることがあれば聞かせてください。
関谷:本来、人間の幸福度はもっと多様な測り方があると思っています。災害に遭ったから、つらい経験をしているから不幸なのではなく、それを乗り越えるまでのプロセスの問題だと思います。さまざまな経験を含めてウェルビーイングは存在しているものであり、もう少し緩やかに、多面的にウェルビーイングを捉えられたらと思っています。
(関谷直也 著/2021年・東京大学出版会)
東日本大震災など、近年の自然災害において重要性が増している災害情報を社会心理学の観点から多角的に分析している。