触感コンテンツ+ウェルビーイング専門誌 ふるえ Vol.55
Sustainable Well-being
ウェルビーイングをつくる過程と学び
ウェルビーイングをつくるにはどのようなアプローチが考えられるでしょうか。ソフトウェア開発の手法であるアジャイル、美術教育における創造性という視点でアプローチしてみました。
NTT社会情報研究所 Social Well-being研究サイト
NTTの研究所では、個人が自律的でいきいきとし、集団としても“よい”状態をめざしたウェルビーイングの研究を行っています。
https://www.rd.ntt/sil/project/socialwellbeing/
回転とチームから捉える
アジャイルとウェルビーイングの関係性
市谷聡啓
Toshihiro Ichitani
株式会社レッドジャーニー代表。元政府CIO補佐官。アジャイル開発と組織アジャイルを専門として、行政や大企業のDXや地域企業のコミュニティなどでアジャイル適応支援に取り組む。近著に『アジャイルなプロダクトづくり』がある。
アジャイルの中核となる「回転」と「チーム」
—まず、アジャイルについて教えてください。
市谷:アジャイルという概念は、2001年に公開された「アジャイルソフトウェア宣言」[※1]に端を発しています。これは、従来のソフトウェア開発とは異なる手法を採用していた開発者たちが、大切にすべき価値として、プロセスやツールよりも個人との対話、包括的なドキュメントよりも動くソフトウェア、契約交渉よりも顧客との協調、計画に従うよりも変化への対応、といった考え方を確認し合ったものです。この宣言に盛り込まれた考え方や手法は、その後四半世紀にわたり、失敗も含めて多くの実践によって検証されてきました。
アジャイルという言葉は、語源となるアジリティ(Agility)という意味どおり「俊敏に」進めていく開発手法や組織を指します。ただし、アジャイルにおける「はやさ」は、開発行為の「速さ」や進捗の「早さ」ではなく、未知の状況に対する「適応のはやさ」を意味していると私は考えます。つまり、分からなかったことに対して、はやく気付いて、はやく対応できる開発手法だということです。
—これまでの開発手法との違いは何でしょうか?
市谷:解決すべき問題が明確で、解決手段もあらかじめ決まっている場合は、上流から下流へ一直線に順次工程を進めるウォーターフォール(Waterfall)の手法が適しています(図1)。
しかし、ゴールや正解が事前に用意されていない状況や課題に対しては、まず自分たちが進むべき方向性について仮説を立て、それに基づいて小さな計画を短期間で実行します。そして、そこから得た新たな発見や気付きをベースに、自分たちの活動を見直し、より適切な方向性を見いだしていく。「回転」を反復することを適応と呼びますが、その回転が短期間で繰り返されることで、はやく適応できるわけです。もちろん、素早く試行錯誤を繰り返すためには、さまざまな作業の無駄を減らす必要があり、結果として「開発の速さ」や「進捗の早さ」につながります。
[図1] ウォーターフォールとアジャイルの違い。アジャイル開発では、小さな計画を短期間で実行し、その結果から適切な方向性を決めることを繰り返す。反復のたびに気付きがあり、それを反映しながら進められる。
—“はやい適応”には何が必要でしょうか?
市谷:アジャイルのもう一つの大きな特徴として「チーム」で動くことが挙げられます。適応をより効果的にはやく行うためには、その基本単位であるチームの「自律性」を高めることが求められます。自律性とは、単に自ら学習・行動するだけでなく、外部の意思決定に依存せず、状況に対しチーム視点で適切な判断と行動ができることを意味します。
アジャイルなチームでは、最初からすべてに精通していることよりも、さまざまな専門性を持つメンバーが集まり、それぞれの知見を出し合いながら未知の課題を乗り越え、個人とチームの両方で成長することが重要視されます。
最適化の呪縛
—アジャイルはなぜ必要とされているのでしょうか?
市谷:私はこれまでに、さまざまな企業のプロジェクトを支援してきましたが、日本の組織に共通する課題を感じています。それは1980年代から続く「最適化の呪縛」です。企業の社内ルールや仕事の進め方、業務システムの多くは効率性を基準につくられてきました。これに過度に依存した結果、選択肢を事前に絞り込み、標準化するというメンタリティが根付いてしまったのです。これは別の視点からすると思考停止とも言え、想定外の変化に対する柔軟な対応力が失われてしまう危険をはらんでいます。新型コロナウイルス感染症への対応で起きた混乱も一つの現れでしょう。
—最適化だけでは対応できない問題があることが、再認識されたのですね。
市谷:はい。これまでの組織に欠けていた要素が意識されたことで、あらためてアジャイルが注目されるようになりました。最適化の呪縛の裏返しですが、日本の多くの組織に欠けているものは「探索」と「適応」ではないかと思っています。つまり、どこにどうやって向かうのか、何が価値なのかを自ら問い直し、仮説検証を繰り返して、探索的に変化に適応していくことです。もちろん、組織全体のマインドの変革は一朝一夕に成し遂げられませんが、まずはチームで働くこと、そして、探索と適応の実践、さらにそれを組織として実施する、というかたちで段階的に浸透させていくことが重要です(図2)。
[図2] 組織変革におけるアジャイルの導入ステップを示す「アジャイル・ハウス」のモデル。アジャイルマインドを基礎として、チーム、事業、組織全体へと積み上げていく。
アジャイルとウェルビーイングの共通点
—ウェルビーイングとの関係はどのようにお考えでしょうか。
市谷:渡邊さんたちの著書『ウェルビーイングのつくりかた』[※2]の中で、ウェルビーイングは構成概念で、厳密な意味での定義はなく、状態やメカニズムを説明するためにつくられたとありますが、アジャイルもまさに同じだなと感じました(図3)。アジャイルも国際規約があるわけではなく、2001年に関係者が集まって決めたものです。概念があるから「アジャイルなチーム」と言えるようになったのです。
また、「よいあり方」は時間変化するもの、そして、他者との関わりの中でつくられるものとあります。このウェルビーイングの捉え方にもアジャイルとの共通性を感じています。アジャイルはチームを基本単位として進めますが、適応していく中で、チームが何を「よい」とするかは時とともに変わっていきます。そして、チーム内の相互作用から「よい感じ」が生まれ、ゴールの達成だけでなく日々の営みを大切にしながらチームの健全性を保って進めていきます。結果だけでなく、過程に重きを置く姿勢は、前記のウェルビーイングの捉え方と共通している部分です。
—アジャイルにおいて、チームはどのように捉えられるでしょうか?
市谷:同書には「“わたし”のための“あなた”」では、もはや世の中の複雑な問題に対処できない、「わたし」を「わたしたち」にまで広げることで問題に付き合えるようにする、とあります。アジャイルでは「“問題”対“わたしたち”」ということが昔から述べられていて、だからこそ、見える化によって問題を見えるようにし、「ふりかえり」や「むきなおり」によって自分たちにとってよりよい方向性や行動を決めていこうとしています。
もちろん、チームが同じ状況でも、メンバーそれぞれは個別の感覚を持っています。それらをつなげて「わたしたち」の動きをよくするためには、お互いが理解できる表現が重要です。渡邊さんは、これを「中間言語」と表現されていましたが、アジャイルでも「いきいきとしている」「ワクワクする」「モヤモヤする」といった表現を判断の手掛かりにしてきました。
手順や行動だけだと、メンバーの感じていることが置き去りになります。なので、手順や行動ではなく、一方で、個人的な内面の言葉でもない、五感を手掛かりにしたお互いに理解できる状況を表す中間言語を持つことは、“わたしたち”としてウェルビーイングやアジャイルを実現する上で重要となるのでしょう。
●ウェルビーイング
人によって「よい」は異なる。ある人の「よい」も、時間とともに変わる。
●アジャイル
アジャイルはチームで臨む。チームとして何をよさと見るかは時とともに変わる。
●ウェルビーイング
他者との関わりの中で「よい状態」は立ち現れてくる。
●アジャイル
アジャイルはチームで臨む。チーム内の相互の働きかけから「よい感じ」は生まれる。
●ウェルビーイング
結果としてだけではなく、過程として「よい状態」かを判断する。
●アジャイル
ゴール達成指向というよりは「営み」である。ゆえに、日々の営みをチームで大事にする。
[図3] 市谷さんの考えるアジャイルにおける「よい」と、『ウェルビーイングのつくりかた』で説明されているウェルビーイングの「よい」 の比較。
市谷聡啓氏 近著紹介
『アジャイルなプロダクトづくり』(市谷聡啓/2024年・インプレス)
※1 「アジャイルソフトウェア開発宣言」 https://agilemanifesto.org/iso/ja/manifesto.html
※2 『ウェルビーイングのつくりかた─ 「わたし」と「わたしたち」をつなぐデザインガイド』(渡邊淳司、ドミニク・チェン著/2023年・ビー・エヌ・エヌ)
発行日 2024年11月1日
発 行 日本電信電話株式会社
編集長 渡邊淳司(NTTコミュニケーション科学基礎研究所)
編 集 矢野裕彦(TEXTEDIT)
デザイン 楯まさみ(Side)