「子どもたちの笑顔でつながる共生社会」へ向けた学び
ともによりよく生きる力を育む品川区のウェルビーイング教育
伊﨑みゆき
Miyuki Izaki
品川区教育委員会 教育長。品川区に入区以来、子育て支援課長、子ども育成課長、福祉部長、地域振興部長などを歴任。令和5年4月より現職。子ども政策や地域振興などこれまでの経験を生かし、「品川区教育ビジョン」においても、その基本的な考え方としてウェルビーイングを取り入れている。
平 真由子
Mayuko Taira
金沢工業大学教職課程 准教授。専門は教育心理学・スポーツ心理学。石川県の公立中学校で社会科教員として勤務し、特別活動主任、道徳教育推進教師、生徒指導主任などを歴任し、学校教育におけるウェルビーイングの実践と研究に取り組む。品川区の「しながわウェルビーイング教育」に講師として参加。
社会福祉の世界からウェルビーイングの必要性を知る
平 真由子(以下、平):はじめに、伊﨑さんの来歴をお聞かせください。
伊﨑みゆき(以下、伊﨑):大学では福祉を学び、「自分の家で、幸せに最後まで暮らせる社会の仕組みを作りたい」という思いから、区役所に入りました。入区2年目から障がい者のケースワーカーを務め、保健所での勤務を経て、その後、待機児童対策や子育て支援など子どもに関する部署に延べ13年間所属しました。それから、地域活動課長、福祉部長、地域振興部長を経て、令和5年から教育長を務めています。
平:行政のさまざまな仕事を経験する中で、ウェルビーイングが大切なことだと考えるようになったのは、どういった経緯ですか?
伊﨑:私が大学で学んでいた頃、社会福祉は「ウェルフェア(Welfare)」という視点で捉えられていました。社会的に弱い立場にいる人々を、社会としてどう支えていくかという考え方です。その後、地域活動課長のときに社会福祉士の資格を取るため学び直した際、福祉の考え方が、ウェルフェアから「ウェルビーイング(Well-being)」へと広がっていることを理解しました。外からの支援だけでなく、一人ひとりが自分なりのよりよい状態に向かって、主体的に歩んでいく力を身に付けていく。そうしたことを考える必要があるのだと気付きました。さらに学んでいく中で、ウェルビーイングは、困難を抱えている人や、特定の世代だけでなく、すべての人に関わる考え方なのだと思うようになりました。教育に携わるようになる前から、福祉の視点から、ウェルビーイングの必要性を感じていました。
その後、教育分野に携わり、ウェルビーイングとあらためて出会ったのが、OECDの「ラーニング・コンパス2030」でした。これからの教育が何をめざしていくのかを、広い視野から示したものです。そのため、最初はなかなか難しく感じる部分もありましたが、日本でもこうした考え方が取り入れられ、令和5年に策定された第4期教育振興基本計画では、ウェルビーイングの向上が教育政策の重要な方向性の一つとして示されました。福祉の分野で感じていたウェルビーイングの大切さが、教育においても重要になっていることを実感し、品川区でもウェルビーイングの視点を取り入れた教育に取り組んでいきたいと考えるようになりました。
子どもたちが自分で考えお互いの違いを受け止める力を
平:そうしたお考えが、令和7年度から始まった「しながわウェルビーイング教育」につながっているのですね(図1)。先ほど、支援を受けるだけでなく、ウェルビーイングを自ら実現することが大切だというお話がありました。そう考えるようになった背景にはどのような経験があったのでしょうか?
伊﨑:ウェルビーイングという言葉を意識する前、保育に関わる仕事をしていた当時、「叱らない子育て」が注目されていました。そこで、ある幼稚園の園長に、「叱られることなく、何でも好きなことができれば、子どもの自己肯定感は高くなるのでしょうか?」と尋ねたことがあります。すると、「むしろ逆です。何をしても叱られないと、子どもの自己肯定感はかえって下がるんです」と言われたのです。そう言われて、「ああ、そうか」と思いました。周囲から「あなたは大丈夫」「そのままでいい」と言ってもらうことは、もちろん大切です。でもそれだけでは内面は育たない。いろいろなことに挑戦し、時には失敗したり、ちょっと落ち込んだりしながらも、そこから立ち直っていく。そうした経験を重ねる中で自分を信じる力も育っていく。困難に対してもたくましく、しなやかに立ち向かい、乗り越える力(レジリエンス)を身に付けていくには、どうしたらいいのだろうと考えるようになりました。
もう一つ、地域の仕事をする中で気が付いたのが、子どもが地域の大人と一緒に活動することの大切さです。私が子育てをしていた頃は、子どもが友達と公園に行き、近所の人に見守られ、声をかけられる環境がまだ残っていました。でも今は、子どもたちが地域の大人と関わる機会そのものが少なくなっています。地域の中では、間違ったことや危ないことをしたら、大人から叱られることもあります。そうしたさまざまな大人との関わりが子どもを育てていくのだと思います。
図1 『しながわウェルビーイング教育のあゆみ 令和7年度』(品川区教育委員会)。ウェルビーイング教育の全体像や、令和7年度における重点校・特別推進校での実践記録を掲載している。
https://www.city.shinagawa.tokyo.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/009/644/index_1153.pdf
平:福祉や保育、地域でのさまざまな経験が、現在のウェルビーイング教育につながっていますね。ウェルビーイング教育を通して、品川区の子どもたちには、どのような力を身に付けてほしいと考えていますか?
伊﨑:まずは、自分で物事を考え、自分なりに判断して行動する力「主体性」の育成が大切だと思います。その上で、他人と自分は違うということを知り、その違いを受け止められるようになってほしい。すべての人の考えに共感したり、賛成したりする必要はありません。でも、そういう考え方もあるのだと受け止められる。その中で、どう折り合いをつけていくか、自分で考えられるように育ってほしいと思っています。
そうした力を一人ひとりが身に付けていった先に見えてくるのが、さまざまな人、さまざまな考え方を持つ人が、ともに安心して暮らせる共生社会ではないでしょうか。品川区教育ビジョンで掲げている「子どもたちの笑顔でつながる共生社会 ~みんなのウェルビーイングを目指して~」という言葉には、そんな思いが込められています(図2)。特に大切にしたのが、「子どもたちの笑顔」という言葉です。教育の中心にいるのは、やはり子どもたちです。まず、一人ひとりの子どもが笑顔で、自分らしく生きられることを大切にしたい。そして、もう一つが「みんなのウェルビーイング」です。自分だけでなく、仲間や周りの人、そして地域や社会も含めて、みんながよりよく生きられることを考えていく。そんな教育をめざしたいという思いを込めています。
図2 品川区版「学びの羅針盤2030」(『しながわウェルビーイング教育のあゆみ 令和7年度』より)。OECDの「ラーニング・コンパス2030」を参考に、品川区の教育の方向性を表現した。大海原をさまざまな人と支え合いながら、自らの意思で未来へ進む子どもたちの姿が描かれている。「品川教育ルネサンス」以来大切にしてきた3つの考え方を基盤に、幼児教育と義務教育の円滑な接続を土台にし、ウェルビーイング教育、レジリエンス育成、ダイバーシティ&インクルージョンの実現などを重点施策に位置付けている。
ウェルビーイングを学校教育の土台に
平:「しながわウェルビーイング教育」は、指定校での実践を重ねながら、段階的に全校へ広げられています(図3)。私たちはウェルビーイング教育の講師という立場で、学校現場での教員研修や模擬授業に伺っていますが、最近、ウェルビーイングという言葉が少しずつ浸透してきたと感じています。
図3 品川区のウェルビーイング教育の全校導入へのステップ。令和7年度より重点校、特別推進校、推進校を指定し、子どもたちのウェルビーイングの理解、その実現に向けた資質・能力の向上に取り組む。重点校・特別推進校では、区教育委員会が指定したウェルビーイング教育に造詣の深い講師(平 真由子 准教授やNTT社会情報研究所の研究員を含む)が伴走するかたちで行われ、令和10年度には、品川区立の小学校・中学校・義務教育学校、全46校で自発的な実践が進められている状態をめざす。
※1:令和8年度の重点校2校は、令和7年度の重点校および特別推進校から継続。
伊﨑:初めは、「ウェルビーイングって何だろう?」と思った教員の方も多かったのではないでしょうか。そこで、私が校長会で繰り返しお伝えしたことは、まったく新しい学びを始めるわけではないということです。これまでも学校には、子どもたちが自分を大切にし、友達と支え合い、地域と関わる学びがありました。そのような学校が大切にしてきた学びを、ウェルビーイングという視点から捉え直し、教育の土台として、日々の学びにつなげてほしいということです。もちろん、そのためには、まず教員自身が「ウェルビーイングとは何か」を学び、共通理解を持つことが大切です。そこで、講師の方々にも協力していただきながら研修を行い、教員の皆さんがウェルビーイングについて学び、考える機会をつくってきました。
平:品川区のウェルビーイングの学びの中では、「わたしたちのウェルビーイングカード[*1]」が利用されています。そのきっかけは何だったのでしょうか?
伊﨑:以前、品川区の子どもたちが「わたしたちのウェルビーイングカード」を使って、「このまちで何を大切にしたいか」をグループで話し合う様子を見る機会がありました。そのとき、カードを使うことで、一人ひとりが大切にしていることや、その考え方の違いが見えやすくなると感じたんです。品川区でウェルビーイング教育をどのように進めていくかを考えたとき、その経験を思い出してNTT社会情報研究所さんに相談したのが始まりです。
「ウェルビーイング」という言葉は、そのままでは子どもたちにとって少し難しいかもしれません。でも、カードを使うことで、自分が何を大切にしているのか、友達とは何が同じで何が違うのかを、目に見える形で考えたり、話し合ったりすることができます。そういう意味で、子どもたちがウェルビーイングを理解し、考えるためのツールとして、とても有効だと感じています。
平:ウェルビーイングの学びを取り入れた先生方や学校からは、どのような反応や変化が聞こえてきていますか?
伊﨑:先行して取り組んでいる学校の話を聞くと、ウェルビーイングという考え方が、学校生活の中で日常的なものになっていくことが大切だと感じます。授業や日々の生活の中で繰り返し触れることで、少しずつ子どもたちの中にも浸透し、自然とウェルビーイングの視点から物事を考えるようになってきた、という話を聞いています。そのようなことが進んでいくことで、子どもたちが人や社会を見る視点にも、少しずつ変化が生まれているのではないかと思います。
また、令和8年1月に実施した「児童・生徒アンケート」では、ウェルビーイングの学びと、子どもたちが幸せを感じる頻度などとの関係についても調査しています。現時点では、ウェルビーイングの学びと子どもたちの幸せを感じる頻度や前向きな行動との間に、一定の関連が見えてきています(グラフ1)。今後も継続して調査し、ウェルビーイング教育によって子どもたちにどのような変化が生まれているのかを見ていきたいと考えています。
一方で、「ウェルビーイング=今、自分が幸せであればよい」と捉えてしまう子どももいます。そうしたときには、「自分だけではなく、周りの人にとってはどうだろう?」、「今はよくても、将来はどうだろう?」と、視野を広げて考えるように伝えることが大事です。ウェルビーイングは、自分だけで完結するものではなく、他者との関係や社会、そして時間的な広がりの中でも考えていくものです。こうした理解については、これからも継続的に働きかけていくことが大切だと思っています。
グラフ1 品川区「児童・生徒アンケート」(令和8年1月実施)の結果より。5~9年生(小学5年~中学3年)の「ウェルビーイング」という言葉の理解度(①)別に、普段の生活で幸せな気持ちになる頻度(②)をクロス集計した。言葉の意味を理解し説明できる層は「よくある」と答えた割合が61.8%と、ほかより高くなる傾向があった。
「保護者アンケート、児童・生徒アンケートの結果/品川区」
https://www.city.shinagawa.tokyo.jp/kodomo/gakkokyoiku/1007205/1007217.html
子どものウェルビーイングと教職員のウェルビーイング
平:子どものウェルビーイングを支えるためには、教職員の方自身のウェルビーイングも大切になります。
伊﨑:子どものウェルビーイングを考えるなら、教職員一人ひとりのウェルビーイングもセットで考えなければならないと思います。今は、授業だけでなく、さまざまな課題への対応など、教職員に求められることが本当に増えています。そうした中で、日々子どもたちと向き合っている教職員の皆さんは、本当にすごいと思います。だからこそ、教職員が本来の教育活動に力を注げる環境をつくっていきたいと思っています。例えば、福祉職や心理職など、さまざまな専門職と連携して、チームで子どもを支えていける仕組みづくりなどです。
平:また、今後、ウェルビーイング教育をどのように発展させ、学校に根付かせていきたいと考えていますか?
伊﨑:今、品川区では、独自教科である「市民科[*2]」を、これからの時代に必要となる資質・能力という視点から見直し、再構築しています。市民科はもともと、ウェルビーイングの考え方とも親和性が高いので、市民科の再構築にウェルビーイングの視点を取り入れ、品川区の教育課程とウェルビーイング教育を一体的に考えていきたいと思います。ウェルビーイング教育を一時的なものではなく、日々の学びとして続いていくものにしていきたいと思っています。
[*1]「わたしたちのウェルビーイングカード」(2024、NTT出版):自身や周囲の人々のウェルビーイングに意識を向け、対話を促すツール。
https://socialwellbeing.ilab.ntt.co.jp/tool_measure_wellbeingcard.html
[*2]市民科:「特別の教科 道徳」「特別活動」「総合的な学習の時間」を統合・再構築した品川区独自の教科。
