勘と経験がものを言う職人の世界と思われていた料理の世界に、科学の波が押し寄せています。大嶋絵理奈さんは、おいしさを認知神経科学の視点から探求するニューロガストロノミー研究家で、食と科学のWebメディア「Minamoca Lab.」の編集長。おいしさと奇妙さが入り交じった科学調理の最前線について話を伺いました。
大嶋絵理奈
「Minamoca Lab.」編集長
2015年、東京大学大学院総合文化研究科修士課程ならびに科学技術インタープリター養成プログラム修了。分子生物学、食品化学、認知神経科学を専門とし、科学記事の執筆や各種メディアの立ち上げに従事。
脳で感じるおいしさを演出するオノマトペの効果
—大嶋さんの元々の専門は何ですか?
大嶋:分子生物学です。生命現象を分子レベルで解明するという学問で、例えば、甘いという感覚は、「舌にある味覚の受容体に甘みの分子が作用する」といった考え方をします。心理学や認知科学の研究にも取り組んできました。—大嶋さんが書かれた記事を拝見すると、科学目線での食へのアプローチが面白いのですが、一般的に料理やお菓子などは、ニュアンスとかイメージで語られることが多いように思います。
大嶋:そうですね。メニューや商品名を見ると「◯◯な口溶けの季節のデザート」といった曖昧な表現が多い。しかし、例えば「結晶の大きさが舌が認識できるサイズより小さければ舌触りが滑らかになる」といった、味やおいしさのメカニズムが解明されれば、もっと科学的な表現で特徴を伝えられるはずです。特にお菓子は、分量や手順を厳密に守らないとおいしく作れない食べ物なので、成分の化学反応がおいしさの鍵になります。一方で、非科学的な表現のようで、実は食欲やおいしさに影響するものとして、オノマトペ(擬音語や擬態語)があります。食品業界では、オノマトペへの関心が高まっています。—オノマトペは雰囲気を表しているように思いますが、食への影響はどのように起きているのでしょうか?
大嶋:最近の研究でオノマトペは、脳での処理が通常の言語とは異なることがわかってきました。動物の鳴き声に反応するような脳の部位が関わっていて、非言語的な処理がされていると考えられています。人間の脳には、直感的な処理を行う「システム1」と理性的な処理を行う「システム2」があると言われていて、オノマトペはシステム1を刺激します。例えば「サクサク」とか「シュワシュワ」といった言葉を聞くと、直感的に食べたい、飲みたいと思ってしまう。実際、食品の広告やマーケティングにおいては、すでにオノマトペが効果的に使われています。商品名やパッケージに「とろーり」とか「こってり」などと入れることで、おいしそうに見せるのは常套手段ですね。—言葉だけでなく音も食欲やおいしさに影響するのでしょうか?
大嶋:そうですね。イグノーベル賞を受賞した研究に、「カリッ」という音を聞きながらポテトチップスを咀嚼すると、食感が向上して実際以上にパリパリに感じられるというものがありました。ほかにも、シーフード料理を食べるときに海の潮の音や波の音を流すという演出をするシェフもいます。こういった事例を見ると、おいしさとは究極的には、総合的に脳で感じるものだといえます。分子調理というアプローチと料理の数式化
—記事にもありましたが、「分子調理」について教えてください。
大嶋:分子調理を世界的に有名にしたのはスペインのレストラン「エル・ブジ」ですね。シェフだったフェラン・アドリアは、人の五感すべてに働きかけ、驚きを与える料理を作りたいと考え、液状の素材を泡にするエスプーマを使ったり、減圧装置や遠心分離機などの実験装置を調理に取り入れたりしました。—分子調理の目的は何でしょうか?
大嶋:分子調理は見た目に変化をつけるだけでなく機能的な目的もあります。例えば超音波を使って食物を気体にするという手法があります。いわば食べる煙ですね。この方法だとカロリーはゼロなので、食事制限をしている人でも料理を楽しむことができるんです。また圧力を使って筍などの硬い食材を柔らかくして、まるでババロアのようにスプーンですくえるようにする技術もあります。歯が弱くなったお年寄りの方のための食事などに最適ですね。—なるほど。代表的な調理方法について教えてください。
大嶋:まず液体窒素を使った「瞬間凍結」。食材をゆっくり凍らせると細胞が破壊されますが、この方法だと細胞が保たれて味や品質の劣化が起こりません。もちろん食感がパリパリになるのも特徴です。また「泡化」もよく知られた分子調理法です。先ほど話したエスプーマという器具を使い、食材をムース状にします。泡にすると食感が変わるほか、表面積が増えて味が舌の受容体に伝わりやすくなり、少量で済むという特徴もあります。そして「球化」もユニークな手法ですね。アルギン酸ナトリウムと乳酸カルシウムという物質を使い、液体をイクラのような粒にするんです。ツブツブとした食感を楽しめるだけでなく、噛むと液体が出てくるといった演出も可能となります。代表的な分子調理のひとつ、エスプーマを使った「泡化」。食感や見た目に加えて、味わいにも影響する調理方法。
—科学の力で、食の固定観念を壊す試みといえますね。
大嶋:さらに科学的なアプローチとしては、「料理の式」というものがあります。物理化学者エルヴェ・ティスが提唱したもので、食べ物の状態を、W(液体)、S(固体)、O(油脂)、G(気体)。分子活動の状態を、⁄(分散)、+(併存)、U(包含)、σ(重層)と定義して数式にするものです。例えばチーズタルトのチーズ部分は、チーズ(S1)と砂糖(S2)と生クリーム(O1)が、牛乳(W)の中に分散してできていると考えると、その数式は、(S1+S2+O1)⁄ W
と表せます。
また、砂糖(S2)、小麦粉(S3)、卵(O2)、バター(O3)が合わさったタルト部分は、
S2+S3+O2+O3
と表すことができます。つまりチーズタルトとは、
(S1+S2+O1)⁄ W σ S2+S3+O2+O3
という数式になるわけです。数式にすることの利点は、式の項を入れ替えることで、まったく新しい料理を開発できる可能性があることです。実際にS2の項を砂糖から塩に置き換えたチーズタルトを作ってみました。“おつまみタルト”になるかと思ったのですが……。
—数式で完成した料理はどうでしたか?
大嶋:思ったより悪くはありませんでした(笑)。ただ、素材が変わると物性も変わってしまうので、固さが変わったり、形がまとまらなかったりと調整する必要は感じましたね。とはいえ料理の式は、これまでになかった料理を生み出すきっかけになるでしょう。こういった多様な方法で食べ物の概念を変えていくことが、食の進化を後押しすると考えています。チーズタルトを数式で表すと「(S1+S2+O1)⁄ W σ S2+S3+O2+O3」と表すことができる。料理の数式化は、数式の値を置き換えることで別の料理を生み出せる。