「見える/見えない」の違いを超えた競技の本質を探る
2つの視覚障がい者スポーツの
身体的な“翻訳”に挑戦
スポーツ中継を楽しむ人は多いでしょう。しかし、その競技の本質は、中継を見たり、解説を聞いただけでは分からない部分があります。そこで、競技の本質を別の身体的な動きに置き換えて理解する「スポーツ翻訳」という方法論が開発されました。今回は翻訳者とプレーヤーの感覚特性が異なる、つまり、パラスポーツというより困難さが増した翻訳に挑戦します。
『見えないスポーツ図鑑』(晶文社、2020)
スポーツ翻訳の研究の成果。これまで実施してきた10種類のオリンピックスポーツでの翻訳の様子を紹介。
NTTの研究所は、東京工業大学の伊藤亜紗教授と共同で、視覚障がい者と一緒にスポーツを観戦するためのプロジェクトを行ってきました(ふるえVol.20、24参照)。視覚に頼らないスポーツ観戦といえば、言葉を使う方法が一般的ですが、ダイナミックな動きや絶妙なタイミングなど、言葉では伝えられないことがスポーツのシーンには数多くあります。そこで私たちが注目したのが、身体動作による選手の動きの置き換えです。例えば、柔道という力強い2人の選手による力と力、技と技の駆け引きは、晴眼者2人が手ぬぐいを引っ張り合い、視覚障がい者がその手ぬぐいのまん中をつかんで感じる、という動作に置き換えられました。これは、視覚障がい者に、柔道の試合を頭で理解するものとして提示するのではなく、その本質を別の動きに置き換え(身体的に翻訳し)、身体を通して体感してもらうもので、私たちは「スポーツ翻訳」と呼んでいます。
また、「スポーツ翻訳」の研究が進むにつれ、実は、晴眼者も、アスリートの感じていることや行っていることの本質を見ることができていないのではないか、という疑問が生じてきました。そこで本プロジェクトでは、さまざまなスポーツのアスリートや専門家に話を伺い、オリンピック10競技の翻訳を行いました。その成果は『見えないスポーツ図鑑』という本として結実しました。例えば、ラグビーではキッチンペーパーとひも、フェンシングではアルファベットの木製オブジェといった、日常で手に入る道具を使って翻訳がなされました。
そして今回は、プロジェクトメンバーの伊藤亜紗氏が、パラリンピック中継の中で「スポーツ翻訳」を紹介することをきっかけに、2つの視覚障がい者スポーツの翻訳をすることになりました(翻訳の実施は2021年8月末)。見えないことを前提とした競技の翻訳は初めてで、さらに、専門家も視覚障がい者であり、どうやって専門家と翻訳者がコミュニケーションをとっていくのか、さまざまな意味でチャレンジングな試みです。
スポーツ翻訳 プロジェクトメンバー
伊藤亜紗 東京工業大学 リベラルアーツ研究教育院 教授
渡邊淳司 NTT コミュニケーション科学基礎研究所 人間情報研究部 上席特別研究員
林 阿希子 NTT 人間情報研究所 サイバー世界研究プロジェクト 主任研究員
翻訳するスポーツ その1
ゴールボール
視覚障がい者向けに考案された球技で、1976年よりパラリンピック正式種目。3人が1つのチームとなり、味方のゴールを守りながら相手のゴールにボールを2度バウンドさせ、投げ入れて得点を競う。また選手は視野や視力といった障がいの程度によって差が出ないよう、アイシェードを装着する。競技のコートは6人制バレーボールと同じ広さで、ラインには触って分かるようにテープの下にひもが通してある。ボールはバスケットボールと同じ大きさで、中に鈴が入っている。重さはバスケットボールの約2倍。そのためボールが体に当たった際の衝撃は大きく、「静寂の中の格闘技」とも呼ばれる。
ゴールボールとはいわば
静けさの中での音を使った心理戦
安達阿記子(あだちあきこ)
14歳のときに右目に黄斑変性症を発症。20歳のときに左目にも発症して視覚障がいに。2006年にゴールボールと出会い、2012年ロンドンパラリンピックで金メダル獲得。リーフラス株式会社所属。
ゴールボールの選手は、どのようにして周囲の環境を把握して、プレーしているのか。日本代表として活躍し、2012年のロンドンパラリンピックでは見事金メダルを獲得した安達阿記子氏に話を聞き、ゴールボールの翻訳にトライしてもらいました。
「音を取る」練習を繰り返し距離感や位置を把握できるように
—ゴールボールとの出会いを教えてください。安達:私は14歳の時に右目、20歳の時に左目に病気を発症し視覚障がいになりました。視野の中央部分が見えにくいという状態です。そして22歳のとき、今後のことを考え視力障害センターに入りました。ゴールボールとは、そこのクラブ活動で出会ったんです。最初に先輩たちのプレーを見せてもらったのですが、そのときは「私にも、すぐにできるかも」と思ったんです。
しかし、アイシェードを着けて実際にやってみたところ、まったく動けませんでした。真っ暗なので、ラインから離れると自分がどの辺りにいるのかも分からず、ウロウロしちゃいました(笑)。
—上達するまで、どのような練習をしたのですか?安達:まずは、ボールの位置を音で判断する練習です。ボールをゆっくり投げてもらい「ボンッ」と音がしたら、そちらのほうを向きます。次に、近づいてくる音を聞きながら正面でボールをキャッチします。これを繰り返すことで、徐々に向きや距離を音で判断できるようになりました。いわば「音を取る」練習です。こういった練習を続けながら、同時にゴールやラインに触れることで、コートのイメージが出来上がってきます。そうすると、自分の位置も分かるようになるんです。
—ボールの音で判断できることが重要なんですね。安達:そうですね。あと試合では、相手が立てる音や間も重要です。例えば、ボールを相手の右のほうへ投げたとします。いったん音は消え、相手のサイドから数をカウントする声や足音が聞こえます。相手はその間に、ボールを左に移動させた可能性がありますし、逆に、そう思わせるように足音だけ立てて、実は動かない戦術かもしれない。いろいろな場合を想定して守備をする必要があります。
安達:はい。そしてフェイントのような足音は無視するなど、音を聞き分けることも必要です。予測どおりのところにボールが来てキャッチできたときは、「よしッ!」という大きな達成感がありますね。
ゴールボールの翻訳に挑戦!
コップの中のビー玉とひもで音の心理戦を再現
前半戦
音を慎重に聞き分けるゴールボールは音を聞き分けるので、まずはコップとビー玉を用意。3つのコップに複数のビー玉を入れ、1つのコップだけ小さいビー玉にする。そしてコップを振り、カチャカチャという音だけで小さいビー玉の入っているコップを当てる。やってみると思いのほか正解率が高いので、卓球の玉も加えることに。すると異質な音が混ざり、聞き分けが難しくなる。安達さんによると「卓球の球の音は邪魔をするので、相手選手の足音みたい。いずれにせよ、音に集中するところがゴールボールに似ていますね」とのこと。
後半戦
駆け引きをひもで翻訳駆け引きの要素を再現するため、テーブルを挟んで立つ2人が、2本のひもを左右の手で握るというスタイルに挑戦。お互い見えない状態で、攻撃側はひもを引っ張り、守備側はひもを取られまいとする。加えて両手首にはビー玉を入れた箱を装着し、手を動かすたびに音が鳴るようにした。攻撃側は手を動かし音を立ててフェイント、守備側は相手の動きを読んで構える。なかなか難しい上に、負けると悔しさも残る。「主に音で相手の動きを探る点、緊張感のある駆け引き。確かにゴールボールの本質に近いかも」という安達さんの感想が出た。
翻訳するスポーツ その2
視覚障がい者5人制サッカー
視覚障がい者を含む選手による5人制サッカー。2004年よりパラリンピック正式種目。フィールドプレーヤー4人はアイマスクを装着し、音の出るボールを使用する。ゴールキーパーは晴眼者または弱視者が務める。相手のゴール裏には「ガイド」と呼ばれる晴眼者が立ち、ゴール位置やタイミングを声で知らせる。フィールドはフットサルと同じ広さで、両サイドラインには高さ1mほどのフェンスを設置。フェンスにボールを当てて、跳ね返りを利用するプレーも可能。ボールを持ったプレーヤーに向かっていく際、衝突を避けるために「ボイ!」という声を出す必要がある。別名ブラインドサッカーとして知られる。
5人制サッカーの魅力は
音による空間認識と華麗なテクニック
葭原滋男(よしはらしげお)
小学時代に網膜色素変性症が判明、22歳で視覚障がいに。1992年以降、陸上と自転車でパラリンピックに4度参加し、金銀銅のメタルを獲得。2002年に視覚障がい者5人制サッカーと出会い、日本代表としても活躍。
ボールが見えない状態でドリブルし、パスをつなぎ、シュートを決める視覚障がい者5人制サッカー。ダイナミックなそのプレーの秘密を、複数のパラスポーツの第一人者として活躍してきた葭原滋男氏に伺いながら、翻訳に挑戦してもらいました。
情報を収集し頭の中で映像化し空間認識でピッチ全体を把握する
—もともとスポーツがお好きだったと伺いました。葭原:そうですね。視覚障がいになる22歳までは、いろいろやっていました。特に夢中だったのがサッカー。Jリーグの開幕戦も見に行きました。しかしその頃は、すでにピッチが見えづらくなっていました。
その後は、視覚障がい者としてパラスポーツに取り組み始め、バルセロナからアテネまでパラリンピックは4回出ています。最初は陸上の走り高跳び、その後は自転車競技です。実は金銀銅、合計4つのメダルを獲得しました。
—素晴らしいですね。視覚障がい者5人制サッカーを本格的に始めたのは、その後ということですね。葭原:そうなんです。アテネ大会までは自転車が中心でしたが、それ以降は5人制サッカーに完全に転向しました。あまり予備知識を持たずスタートしたのですが、大好きだったサッカーなので青春時代がよみがえりました。
2007~2011年は日本代表でもプレーして、リオのパラリンピック予選後に代表は引退。現在は「乃木坂ナイツ」という5人制サッカーのチームを立ち上げ、選手兼代表として活動しています。
—5人制サッカーのポイントは何でしょうか?葭原:私にとってはイメージのスポーツで、周囲の音をしっかり聞くことが重要です。まずは声ですね。仲間の声と相手の声。あとはゴールキーパーやガイド、そして監督の声。これらの声を聞くことで自分の位置を把握します。そして太陽の位置や風向きも含め、いろいろな情報を整理して活用するわけです。相手に関しては声だけでなく、足音や衣擦れの音も聞きます。ちなみに、息づかいで疲れ具合も分かりますよ。
葭原:ええ。視覚と同じぐらいかもしれません。そういえば5人制サッカーを始めてからは、感覚的に後ろも見えるようになりました。なのでヒールパスもよくやりました(笑)。それだけ空間が認識できるようになったということだと思います。
5人制サッカーの翻訳に挑戦!
別々の音を聞き分けて空間を把握するゲーム
前半戦
3つのアイテムで三角形を作る鈴、ハンドベル、マラカスという異なる音が出る3つのアイテムを用意。体験者はアイマスクを着け、ほかの人が、音を鳴らしながらアイテムを1つずつ床に置いていく。体験者は音を頼りに、その三角形の中央を探ってそこに立つというルールだ。最初のトライは成功! しかし、アイテムをさらに移動させると難しくなる。「ベルの位置はどこ?」と戸惑う体験者。 ここで葭原さんにも挑戦してもらう。すると、アイテムを移動させても常に中央をキープ。さすがです。
後半戦
3つを同時に動かして難易度アップ次に、3つのアイテムを3人が持ち、同時に動かすようにルールを変更。すると音が混ざり位置を把握するのが難しくなる。なかなか中心に立てなくなる体験者。加えて、位置が分からなくなると、恐怖を感じるとのこと。
しかし葭原さんは、またもや中央に立つことに成功。移動する音に合わせて、常に中央に移動する。「3つのアイテムは、2人の仲間とボール。そして自分がセンターにいるというディフェンスのフォーメーション。味方の位置も把握しながらボールを追いかけるというイメージで、頭の使い方が、ちょうど5人制サッカーと同じ」という葭原さんの感想だった。